ORIGINAL HORROR READING / 2026.10.11

回覧板の最後に、
私の名前があった。

私の帰宅時間が、回っている。

回覧板と三百二号室の夜の廊下。朗読作品のサムネイル

人間が怖い話 / 朗読 約11分 / 字幕付き / 音声:VOICEVOX:冥鳴ひまり

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あらすじ

新しいアパートで一人暮らしを始めた佐伯真由。隣人はゴミの日を教え、遅い帰宅にも声をかけてくれる、親切な人たちだった。だが、いつもの回覧板に挟まれた一枚の紙には、彼女が家に帰った時刻、来客の有無、台所の消灯まで書かれていた。

「あなたに何かあったら、困るから」。相談する相手は違うのに、返ってくる言葉は同じ。回覧板を断った翌朝、玄関に白い封筒が届く。穏やかな暮らしのための『見守り』は、誰のために続いているのか。

この物語について

本作は、助けを受けることへの感謝と、私生活に踏み込まれる不安の間で、断る言葉を失っていく主人公を描いた創作ホラーです。怪物や大きな驚かせ音ではなく、日常の会話、紙をめくる音、廊下の足音を中心に、親切の意味が変わっていく過程を描いています。

本編は結末まで収録しています。音が出せない場所では字幕、文章で読みたい方は下の全文をご利用ください。

物語の全文を読む(結末を含みます)

回覧板に、昨日の私の帰宅時間が書いてありました。
三〇二号室。帰宅、二十三時十四分。同行者なし。台所の消灯を確認。
私はその紙を、何度も読み返しました。最後の欄には、ボールペンで私の名前が書き足されていました。佐伯、真由。引っ越して、まだ二週間しか経っていない頃のことです。

駅から少し歩いたところにある、三階建ての古いアパートでした。家賃が安く、部屋には南向きの窓が二つありました。勤務先にも通いやすく、私はすぐに契約を決めました。内見の日、階段の隅に落ちた葉を、年配の女性がほうきで集めていました。こんにちは、と声をかけると、女性は私の顔を見て、にっこり笑いました。

三〇一号室の小野です。困ったことがあったら、何でも言ってね。
小野さんは引っ越しの日に、ゴミの分別表を持ってきてくれました。水曜日は燃えるゴミ。段ボールは月に二回。帰りが遅くなっても、集積所の鍵はここにあるから。
土地勘のない私には、ありがたい話ばかりでした。

回覧板も、小野さんから受け取りました。茶色い板に、透明なカバー。表紙には町内の連絡事項と書かれ、清掃の日程と、古紙回収のお知らせが挟まっていました。読んだら名前の横に丸を付け、次の部屋へ回す。それだけです。
最後のお宅に渡すまで、外には出さないでね。個人情報だから。小野さんはそう言いました。

最初の一週間は、本当に静かでした。階下の夫婦は朝になると鉢植えに水をやり、向かいの部屋の男性は、会うたびに軽く頭を下げました。ある晩、仕事帰りに小野さんと廊下で会いました。
お疲れさま。今日はずいぶん早かったのね。
まだ十時半でした。早いと言われるほど、私の帰宅を見せた覚えはありませんでした。

その次の回覧板に、あの紙が挟まっていたのです。清掃のお知らせの下。半分に折られた、方眼の用紙でした。部屋番号と、時刻と、短い文章。
二〇一号室、外出なし。三〇三号室、男性一名の訪問あり。
そして一番下が、私でした。帰宅、二十三時十四分。同行者なし。台所の消灯を確認。

時刻は、合っていました。昨日、帰りに買った弁当の写真を友人へ送ったのが、二十三時十六分。その二分前に、玄関の鍵を開けています。けれど、台所の明かりは廊下から見えません。窓は建物の裏側にあります。
私はカーテンを確かめました。裾の隙間に、細い光が落ちていました。

翌朝、小野さんに紙を見せました。驚くか、間違いだと言うか。少なくとも、少しは気まずそうにすると思っていました。
あら。それ、そっちに入っていたの。
小野さんは紙を抜き、丁寧に四つに折りました。見守りの記録よ。一人暮らしの方に何かあったら、気づいてあげなきゃ困るでしょう。

私は、そんなことを頼んだ覚えはないと言いました。
頼まれてからじゃ、遅いこともあるのよ。
小野さんは怒りませんでした。私が忘れ物をしたときと同じ、少し困ったような顔でした。
夜中に倒れたりしたら、誰が気づくの。あなたに何かあったら、困るから。
そう言われると、私はそれ以上、強い言い方ができませんでした。

それからは、誰かと会うたび、挨拶の後に一言付くようになりました。
昨日はお風呂、遅かったね。最近、自炊していないんじゃない。
向かいの男性は、私の持っているコンビニの袋を見ませんでした。階段で会ったとき、何も持っていなかったのに、そう言ったのです。私は帰宅すると、すぐにカーテンを閉めるようになりました。

土曜日、会社の後輩が遊びに来ました。引っ越し祝いにマグカップをもらい、夕方まで話していました。帰り際、廊下で小野さんに会いました。私は紹介しようとしましたが、小野さんのほうが先に口を開きました。
会社の方? お勤めは、佐伯さんと同じ時間なの?
後輩は何も気にせず、はい、と答えました。

月曜日の回覧板には、お知らせが一枚しかありませんでした。それでも私は、透明なカバーを外し、板の裏まで見ました。紙はありませんでした。代わりに、表紙の私の名前の横に、小さな赤い点がありました。
ゴミ捨ての帰り、階下の奥さんに聞いてみました。この赤い点は、何ですか。

奥さんは私の持つ回覧板を見てから、私の顔を見ました。
小野さんから、聞いていないの。
何をですか、と聞くと、奥さんは鉢植えを持ち上げました。
あなたに何かあったら、困るから。
小野さんと同じ言葉でした。言い方まで、よく似ていました。

管理会社へ電話をすると、見守りの取り決めは知らないと言われました。町内会への加入も、入居の条件ではないそうです。私は、回覧板を今後は受け取らないと、小野さんに伝えました。
小野さんは、分かったわ、と答えました。あっさりした返事でした。私はその晩、久しぶりに窓を少し開けて眠りました。

翌朝、ドアの下に白い封筒がありました。宛名はなく、中には一行だけ印刷されていました。
三〇二号室は、直接確認に切り替えます。
差出人の名前も、問い合わせ先もありません。私は封筒ごと、机の引き出しにしまいました。捨ててしまうのが、何となく怖かったのです。

その日から、私が帰ると、どこかのドアが開くようになりました。小野さんの日も、向かいの男性の日もありました。二階の踊り場に、ただ立っている人もいました。
お帰りなさい。顔が見られて、よかった。
私が部屋に入り、鍵をかけるまで、その人は動きませんでした。

一度だけ、仕事帰りに駅前で時間をつぶしました。いつもより一時間遅く帰れば、誰も待っていないかもしれない。そんな小さな期待でした。
階段を上がると、三階の廊下には二人いました。小野さんと、階下の奥さんです。
遅かったから、二人で待っていたの。
小野さんの手には、あの茶色い回覧板がありました。

私は、記録を見せてくださいと言いました。もう遠慮はしませんでした。すると小野さんは、意外なほど素直に、板を差し出しました。
ほら、変なことなんて書いていないでしょう。
並んでいるのは、私が帰った時刻。窓を開けた時刻。来客の有無。そして、その日の確認者の名前でした。

記録は、私が引っ越してくる前から続いていました。同じ三〇二号室に、別の名字が書かれています。渡辺。
途中から、文字の色が黒から赤へ変わっていました。帰宅時に会話なし。外出先の説明なし。廊下の呼びかけに応答なし。
最後の日にだけ、大きな文字で、転居と書かれていました。

その次のページから、確認者の欄の筆跡が変わっていました。細く、右へ傾いた文字。私がもらった白い封筒にも、小さく鉛筆で同じ形の数字が書かれていたのを思い出しました。
渡辺さんは、どこへ引っ越したんですか。
小野さんは答えず、回覧板を私の手から引き取りました。

そのとき、二階の階段から、声がしました。
もう大丈夫ですよ。
そこにいたのは、何度か見かけた、おとなしい女性でした。いつも伏せていた顔を、その夜は私に向けていました。
一人で決めようとするから、心配されるんです。
女性の手には、赤いボールペンがありました。小野さんは、渡辺さん、ありがとう、と言いました。

翌日、私は友人に事情を話し、しばらく泊めてもらうことにしました。管理会社にも、退去を考えていると連絡しました。まだ引っ越し先は決まっていません。大きな家具は置いたまま、仕事の道具と、何日か分の服だけ運び出すつもりでした。
帰るとき、廊下には誰もいませんでした。私は足音を立てず、部屋へ入りました。

段ボールは、引っ越したときのものが残っていました。底を折り、ガムテープを引きました。静かな部屋に、ばりばりという音が大きく響きました。私は手を止めました。
壁の向こうでも、何かが止まった気がしました。
もう一度テープを引くと、廊下で足音がしました。速くも、遅くもない足音でした。

しばらく待ちました。足音は、私のドアの前を通り過ぎました。下の階へ向かったようでした。私は友人に、今から出る、とメッセージを送りました。財布とスマホを上着に入れ、段ボールを持ち上げようとしたときでした。
インターホンが、一度だけ鳴りました。

画面には、小野さんが映っていました。少し離れたところに、向かいの男性もいました。
佐伯さん。回覧板、最後だから。
私は返事をしませんでした。必要ありません、と言うだけの声も、出ませんでした。すると、小野さんはカメラに向かって、板を持ち上げました。

透明なカバーの中には、白い紙が一枚だけ入っていました。上には、三〇二号室。次の行に、私の名前。
佐伯、真由。転居の兆候あり。
その下には、今日の日付と、丸の付いた名字がいくつも並んでいました。私が会ったことのない人の名前までありました。

ドアの向こうで、小野さんが言いました。
みんな、もう確認しているの。残っているのは、あなただけ。
私は、スマホを握りしめたまま、モニターを見ていました。紙の一番下に、もう一行ありました。
今夜から、一人にしないこと。

小野さんの後ろで、階段の明かりが点きました。ひとり、またひとりと、人が上がってきました。誰も急いではいませんでした。
回覧板の最後にある私の名前。その横の丸だけが、まだ空いていました。
向こう側から、優しい声がしました。
大丈夫。あなたに何かあったら、困るから。

制作・クレジット

制作:ぬつかわ
朗読:VOICEVOX:冥鳴ひまり
映像:本作のために制作した3D背景と、おばけのキャラクター
環境音・効果音:本作向けのオリジナル音源

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