押し入れの戸は、閉めたままだった。それなのに、奥から包丁の音がしていた。まな板を三回、少し間をあけて、二回。その癖を、私は知っていた。母は五年前に亡くなっている。
夜勤から戻ったのは、朝ではなく夕方だった。人が足りず、そのまま残業になった。冷蔵庫には何もない。靴も脱ぎきらないうちに、だしの匂いがした。押し入れの下から、細い光が漏れていた。
戸を開けると、布団がなかった。奥行き七十五センチのはずの場所に、台所が続いていた。緑色の流し台。黄色くなった換気扇。子どもの頃の実家、そのままだった。
「おかえり。ごはん、できてるよ。」
母はコンロに向いたまま言った。紺のカーディガンに、生成りのエプロン。振り返る前から、母だと分かった。どうしてここにいるの、と聞くかわりに、私は、ただいま、と答えていた。
食卓には、肉じゃがが置かれていた。にんじんの端が少し崩れ、しらたきだけが多い。私が好きな作り方だった。口へ運ぶと、甘いだしが舌に広がった。懐かしさで、急に涙が出た。
一口目を飲み込んだとき、明日の勤務が朝からなのか、夜からなのか分からなくなった。疲れているせいだと思った。もう一口食べると、職場の入口の色を思い出せなくなった。
スマートフォンを出した。連絡先には名前が並んでいる。けれど、誰の顔も浮かばない。いちばん上の青木という人から、帰れた、と短いメッセージが来ていた。私は、その人に何を話したのだろう。
「そんなこと、もう覚えてなくていいの。」
母が茶碗によそったごはんを、私の前に置いた。湯気の向こうで、笑っている。私は、仕事を辞めてもいいのかな、と言った。母は返事をせず、茶碗をもう少しだけ、こちらへ寄せた。
箸を置こうとすると、手が止まった。母は左利きだっただろうか。右利きだっただろうか。いつも隣で料理を見ていたのに、思い出せない。今ここにいる母の手も、湯気に隠れて見えなかった。
向かいの椅子に、学校の鞄があった。ずっと昔に捨てたはずのものだった。足元には上履きが揃っている。私はまだ大人だった。そう言い切るために必要な、たくさんの出来事だけが抜けていた。
「冷めちゃうから、早く食べなさい。」
母の声は優しかった。けれど、どこかが違った。本当の母なら、私が箸を止めると、自分も食べるのをやめた。何かあったの、と聞いた。今の母は、私が何も言わないうちから、次の一口を待っていた。
ここへ来たのは、今日が初めてだっただろうか。皿の横に、小さな傷があった。先ほど箸を滑らせたときの傷に似ていた。木目の上には、同じ傷が、何本も重なっていた。
私は母の名前を呼ぼうとした。呼べなかった。葬式の写真も、最後に会った病室も、白く抜けていた。目の前の人だけが母なのに、その顔を見ても、何を懐かしんでいたのか分からなかった。
椅子を引いて立つと、後ろに押し入れの敷居が見えた。その向こうに、脱ぎかけの靴がある。狭くて、寒くて、洗濯物のたまった部屋。私が嫌になっていた生活が、そこに残っていた。
「そんなこと、もう覚えてなくていいの。」
母は笑っていた。さっきと同じ声、同じ息継ぎだった。私が立ったことより、食事をやめたことだけを気にしていた。流し台のほうで、包丁の音がした。母の両手は、食卓の上にあるのに。
ポケットで電話が震えた。画面に青木という名前があった。誰か分からなくても、私を待っている人が、まだ向こうにいる。私は電話を握り、敷居をまたいだ。背中で、茶碗が滑る音がした。
戸を閉めるまで、母は追ってこなかった。ただ、あたたかい匂いが、服の隙間へ入り込もうとした。戸の向こうから、もう一度、食器の触れ合う音がした。私は玄関の靴を履き、そのまま外へ出た。
青木に電話をかけた。名前を見ても顔を思い出せない、と言うと、青木は怒らなかった。いま迎えに行くから、そこにいて、と言った。その言い方が、少しだけ、本当の母に似ていた。
部屋には、青木と一緒に戻った。押し入れの中には布団があった。台所も食卓もない。管理会社の人に話すと、黙って古い入居記録を出した。亡くなった母を見た人は、私だけだった。
前の住人は、山の小屋を見ていた。その前の人は、昔の犬がいる縁側。その部屋で消えた人の届けには、外から鍵がかかっていた、とだけ書かれていた。みんな、帰りたい場所が違っていた。
引っ越しを手伝いに来た青木は、押し入れを開けたあと、しばらく黙った。中を見ないほうがいい、と私が言うより先に、青木は戸を閉めた。奥で、駅の発車ベルが鳴っていた、と後から聞いた。
新しい部屋で、私は肉じゃがを作った。味は、少しもしっくりこなかった。母の味を、もう思い出せなかった。それでも食べ終えるころ、明日の勤務と、青木の顔は、少しずつ戻ってきた。
母の写真だけは、今も見るのが怖い。懐かしさより先に、湯気の匂いがするからだ。きのう、空の棚に茶碗をしまおうとして、手が止まった。木の底に、細い傷が何本もあった。
私はそれを、落とさなかった。食器棚の戸を閉めて、電話をかけた。青木が出るまで、台所には近づかなかった。どこかの換気扇が止まり、部屋はようやく、今の夜の匂いに戻った。
