ぬつかわのホラー鍵箱ほかの朗読へ

A PLACE THAT WANTS YOU HOME

押し入れの奥で、
母が夕飯を作っている。

一口食べるたびに、帰る場所を忘れていく。

冷たい部屋の押し入れの奥に、母が料理する温かな台所が続いている
一話完結のホラー朗読 / 7分16秒

最後まで、聴く。

一人暮らしの部屋の押し入れに、亡くなった母がいる。奥には、子どもの頃の実家の台所。懐かしい夕飯を食べるたび、今の生活の記憶が薄れていく。懐かしさに引き留められる怖さを描く、一話完結のホラー朗読。

音声は再生操作後に読み込みます。自動再生はありません。朗読・控えめなBGM・場面に合わせた効果音。

YouTube本編・紹介ショートは2026年10月21日23時(日本時間)に公開予定です。このページでは音声と全文をお楽しみいただけます。

全文を読む(結末まで収録)

押し入れの戸は、閉めたままだった。それなのに、奥から包丁の音がしていた。まな板を三回、少し間をあけて、二回。その癖を、私は知っていた。母は五年前に亡くなっている。

夜勤から戻ったのは、朝ではなく夕方だった。人が足りず、そのまま残業になった。冷蔵庫には何もない。靴も脱ぎきらないうちに、だしの匂いがした。押し入れの下から、細い光が漏れていた。

戸を開けると、布団がなかった。奥行き七十五センチのはずの場所に、台所が続いていた。緑色の流し台。黄色くなった換気扇。子どもの頃の実家、そのままだった。

「おかえり。ごはん、できてるよ。」

母はコンロに向いたまま言った。紺のカーディガンに、生成りのエプロン。振り返る前から、母だと分かった。どうしてここにいるの、と聞くかわりに、私は、ただいま、と答えていた。

食卓には、肉じゃがが置かれていた。にんじんの端が少し崩れ、しらたきだけが多い。私が好きな作り方だった。口へ運ぶと、甘いだしが舌に広がった。懐かしさで、急に涙が出た。

一口目を飲み込んだとき、明日の勤務が朝からなのか、夜からなのか分からなくなった。疲れているせいだと思った。もう一口食べると、職場の入口の色を思い出せなくなった。

スマートフォンを出した。連絡先には名前が並んでいる。けれど、誰の顔も浮かばない。いちばん上の青木という人から、帰れた、と短いメッセージが来ていた。私は、その人に何を話したのだろう。

「そんなこと、もう覚えてなくていいの。」

母が茶碗によそったごはんを、私の前に置いた。湯気の向こうで、笑っている。私は、仕事を辞めてもいいのかな、と言った。母は返事をせず、茶碗をもう少しだけ、こちらへ寄せた。

箸を置こうとすると、手が止まった。母は左利きだっただろうか。右利きだっただろうか。いつも隣で料理を見ていたのに、思い出せない。今ここにいる母の手も、湯気に隠れて見えなかった。

向かいの椅子に、学校の鞄があった。ずっと昔に捨てたはずのものだった。足元には上履きが揃っている。私はまだ大人だった。そう言い切るために必要な、たくさんの出来事だけが抜けていた。

「冷めちゃうから、早く食べなさい。」

母の声は優しかった。けれど、どこかが違った。本当の母なら、私が箸を止めると、自分も食べるのをやめた。何かあったの、と聞いた。今の母は、私が何も言わないうちから、次の一口を待っていた。

ここへ来たのは、今日が初めてだっただろうか。皿の横に、小さな傷があった。先ほど箸を滑らせたときの傷に似ていた。木目の上には、同じ傷が、何本も重なっていた。

私は母の名前を呼ぼうとした。呼べなかった。葬式の写真も、最後に会った病室も、白く抜けていた。目の前の人だけが母なのに、その顔を見ても、何を懐かしんでいたのか分からなかった。

椅子を引いて立つと、後ろに押し入れの敷居が見えた。その向こうに、脱ぎかけの靴がある。狭くて、寒くて、洗濯物のたまった部屋。私が嫌になっていた生活が、そこに残っていた。

「そんなこと、もう覚えてなくていいの。」

母は笑っていた。さっきと同じ声、同じ息継ぎだった。私が立ったことより、食事をやめたことだけを気にしていた。流し台のほうで、包丁の音がした。母の両手は、食卓の上にあるのに。

ポケットで電話が震えた。画面に青木という名前があった。誰か分からなくても、私を待っている人が、まだ向こうにいる。私は電話を握り、敷居をまたいだ。背中で、茶碗が滑る音がした。

戸を閉めるまで、母は追ってこなかった。ただ、あたたかい匂いが、服の隙間へ入り込もうとした。戸の向こうから、もう一度、食器の触れ合う音がした。私は玄関の靴を履き、そのまま外へ出た。

青木に電話をかけた。名前を見ても顔を思い出せない、と言うと、青木は怒らなかった。いま迎えに行くから、そこにいて、と言った。その言い方が、少しだけ、本当の母に似ていた。

部屋には、青木と一緒に戻った。押し入れの中には布団があった。台所も食卓もない。管理会社の人に話すと、黙って古い入居記録を出した。亡くなった母を見た人は、私だけだった。

前の住人は、山の小屋を見ていた。その前の人は、昔の犬がいる縁側。その部屋で消えた人の届けには、外から鍵がかかっていた、とだけ書かれていた。みんな、帰りたい場所が違っていた。

引っ越しを手伝いに来た青木は、押し入れを開けたあと、しばらく黙った。中を見ないほうがいい、と私が言うより先に、青木は戸を閉めた。奥で、駅の発車ベルが鳴っていた、と後から聞いた。

新しい部屋で、私は肉じゃがを作った。味は、少しもしっくりこなかった。母の味を、もう思い出せなかった。それでも食べ終えるころ、明日の勤務と、青木の顔は、少しずつ戻ってきた。

母の写真だけは、今も見るのが怖い。懐かしさより先に、湯気の匂いがするからだ。きのう、空の棚に茶碗をしまおうとして、手が止まった。木の底に、細い傷が何本もあった。

私はそれを、落とさなかった。食器棚の戸を閉めて、電話をかけた。青木が出るまで、台所には近づかなかった。どこかの換気扇が止まり、部屋はようやく、今の夜の匂いに戻った。

声と制作について

原作・脚本・制作:ぬつかわ
語り:作者本人の学習済み合成音声(原音)、補完:VOICEVOX:玄野武宏(ノーマル)
母の声:VOICEVOX:冥鳴ひまり(ノーマル)
背景・サムネイル:生成AIによる本作品用の画像
BGM・環境音・効果音:本作品用のオリジナル素材

学習音声の速度・音程・音色を保ち、語尾が欠けた区間は再生成し、使えない箇所はVOICEVOXで補完しています。制作にAIを使用しています。物語・人物・施設・出来事はフィクションです。