ORIGINAL HUMAN HORROR
星五つをつけたら、帰ります。
その高評価は、安心した証拠ですか。

初めて頼んだ家事代行は、評判どおり丁寧な仕事だった。だが、作業が終わっても担当者は靴を履かない。星五つと感想の投稿を待つ笑顔の前で、部屋の主は「帰ってほしい」の一言が言えなくなる。高評価の裏に残る、日常の人間ホラー。
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朗読:VOICEVOX:冥鳴ひまり / 約12分
YouTubeで見る動画公開:10/16 18:00(日本時間)
自宅での心理的な圧迫、評価投稿を迫られる描写があります。登場人物・サービス・出来事は架空です。
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初回割引
掃除を頼んだのは、部屋がひどかったからじゃない。転勤先の部屋へ、週末に母が来ることになったからだ。三十二歳にもなって、風呂場の水垢を見られるのが嫌だった。家事代行のアプリで、初回割引の二時間コースを選んだ。評価は、ほとんどが星五つだった。
顔写真は、笑っている中年の男性だった。紹介文には、気になる所がなくなるまで帰りません、とあった。責任感の強い人なのだと思った。一人暮らしの依頼者の評価も多かった。「安心して一人でお願いできました」。その文章を、予約する前に二度か三度、見た気がする。
作業に来た佐伯さんは、清潔な作業着を着ていた。持参したスリッパの裏を玄関で拭き、洗剤を置く前に敷物を広げた。僕は、こういう人に頼んでよかった、と思った。仕事用の机へ戻り、会議の資料を作りながら、時折、掃除機の音を聞いていた。
予定の二時間が過ぎる頃、風呂も台所もきれいになった。鏡に残っていた白い跡が消えていて、素直に礼を言った。佐伯さんは壁の時計を見て、道具をしまい始めた。「最後に、完了の確認だけお願いします」。僕は携帯を持って、玄関へ行った。
アプリの完了ボタンを押すと、評価の画面が出た。佐伯さんは靴を履かなかった。作業着の胸元へ手を当て、笑ったまま言った。「星五つをつけたら、帰ります」。営業の冗談だと思って、僕も少し笑った。でも、僕が携帯を下げると、佐伯さんの笑顔だけが残った。
終わらない作業
「評価は、あとで書きますね」。そう言うと、佐伯さんは、あとで、という言葉を繰り返した。「もちろん構いません。ただ、お客様に満足いただけたことを確認してから、退出する決まりにしているんです」。会社の決まりなのか、この人の決まりなのかは言わなかった。
まだ帰らない客を帰す経験は、何度かあった。明日は早いので、と言えば、大抵は通じた。でも、この人は客ではない。代金を払って来てもらった人だ。乱暴な断り方をして、こちらが面倒な依頼者になるのも嫌だった。僕は、星の並んだ画面を開き直した。
とりあえず四つを選んだ。十分満足したつもりだった。すると佐伯さんは、僕の顔ではなく、画面を見て言った。「一つ、足りませんね。どこが気になりましたか」。別に不満はないと答えると、佐伯さんは脱いでいた手袋を、もう一度、両手にはめた。
「言いづらい所が、あるんだと思います」。佐伯さんは廊下を戻り、さっき拭いた洗面台に向かった。水を出す音がした。追加料金はいりません、と向こうから声がした。僕が頼んだ作業は終わったのに、僕が終わったと言うだけでは、終わりにできなかった。
午後六時から、友人と食事の約束があった。遅れるかもしれない、と連絡を入れると、友人の啓介から、どうした、と返ってきた。「掃除の人が、星五つにするまで帰らない」。送ってから、文字だけだと大したことではないように見えて、何かを付け足そうとした。
その間に、洗面所から呼ばれた。「ここ、どうですか」。佐伯さんは蛇口の根元を指していた。きれいです、と答えた。「こちらは」。排水口も、棚も、鏡も、きれいだった。全部にそう答えると、佐伯さんは、じゃあ五つですね、と言った。感想が、約束に変わった。
同じ五つの星
僕は星を五つにした。もう、五つでよかった。佐伯さんは画面を見て、初めて大きくうなずいた。「ありがとうございます。ひと言も、お願いできますか」。評価の下に、感想を書く空欄があった。僕は、きれいになりました、ありがとうございました、と打った。
「できれば、初めての方の参考になるように」。佐伯さんはそう言って、自分の携帯を取り出した。僕と同じ評価画面の下へ、過去の感想が並んでいた。「こういう感じだと、助かるんです」。指が止まった先に、予約の前に見た、あの文章があった。
「安心して一人でお願いできました」。それを書いてくれ、とは言わなかった。僕が携帯へ視線を戻すまで、佐伯さんは携帯を差し出したまま待っていた。大声も出さない。腕をつかみもしない。狭い廊下に立つ人が、こちらの選択を待っている。それだけだった。
僕は、後ろへ画面を隠すようにして、過去の評価を開いた。同じ文が、すぐに見つかった。二つ下にも、少し前の日付にもあった。句読点の位置まで同じだった。違うのは、台所や浴室といった、前後の短い説明だけだった。さっきまで安心の理由だったものが、別の記録に見えた。
評価には、全く違う感想もあった。時間どおりだった人も、また頼みたいと書いた人もいた。全員が僕と同じ目に遭ったとまでは、分からない。けれど、あの一文を書いた人たちが、どこで携帯を持っていたかは、嫌というほど想像できた。きっと、玄関に近い場所だ。
佐伯さんは、玄関の壁についた小さな黒い跡を見つけた。「これ、入居前からですか」。答える前に、道具の袋へ手を伸ばした。僕は、いいです、と少し強く言った。佐伯さんは手を止めた。「いい、というのは、汚れがあっても構わない、という意味ですか」。
退出の条件
啓介から電話がかかってきた。僕は、出ます、と佐伯さんに言ってから電話に出た。自分の部屋で、自分の電話に出る許可を取っているようだった。「今からそっちへ行く。駅の近くだろ」。啓介はいつもの声だった。その声で、初めて少し気が緩んだ。
「まだ終わらないんだ」。僕が言うと、佐伯さんは聞こえる声で、作業は終了しております、と言った。啓介は黙り、少ししてから、じゃあ迎えに行く、と答えた。誰かが来ると分かれば帰るかもしれない。そんな期待をしたが、佐伯さんは、丁寧に道具の袋の口を拭き始めた。
通話を終えると、佐伯さんが言った。「お友達を待たせてしまいましたね。私も次がありますから、早く終わらせましょう」。僕たちは同じことを望んでいる。それなのに、帰るための動作をするのは僕だけだった。僕が文章を書けば、佐伯さんは靴を履く。その役割は動かなかった。
「評価の文章まで、指定されるものなんですか」。初めて、はっきり聞いた。佐伯さんは眉を上げた。「指定はしていませんよ。参考をお見せしただけです」。その言い方が正しいことは、僕にも分かった。あの文章を書けと言われた記録は、どこにも残っていなかった。
僕は画面を見た。打ちかけの「きれいになりました」が、まだ空欄に残っていた。うそではなかった。風呂も台所も、本当にきれいだった。でも、今の僕が書きたいのは、掃除の出来とは別のことだった。時計を見ると、完了のボタンを押してから、四十分が過ぎていた。
安心して一人でお願いできました、と入力した。途中で、安心、の文字が妙に大きく見えた。佐伯さんは覗き込まず、僕が投稿のボタンを押すまで待った。自分の携帯を一度だけ確認し、ありがとうございました、と頭を下げた。そして、ようやく靴を履いた。
戻った静けさ
ドアが閉まってから、僕はしばらく鍵に手をかけたまま立っていた。外の足音が遠ざかっても、静かになった実感がなかった。部屋は、さっきまでより明らかにきれいだった。鏡の曇りまで消えていることが、かえって気持ち悪かった。嫌なことがあった証拠だけ、残っていないみたいだった。
啓介は、十分ほどして来た。食事には行かず、買ってきた弁当を机で食べた。何が嫌だったのか説明しようとすると、僕の話は、帰ってくれなかった、の一文に戻った。啓介は、それで十分嫌だろ、と言った。腕をつかまれていないことを、弁解に使わなくてよくなった。
一緒にアプリの窓口へ報告した。掃除の内容と、終わってからの出来事を、分けて書いた。星の数に不満があるからではなく、退出を評価と引き換えにされた、と書き直した。その文を入力している間は、誰も僕の画面を見て待っていなかった。
窓口からは、当事者に確認する間、担当者との直接のやり取りは不要だという返事が来た。公開した感想も修正した。佐伯さんから、個別の連絡は来なかった。建物の管理人にも事情を伝えた。翌日、母が来て、きれいにしてるね、と言った。僕は、うん、とだけ答えた。
数日後、アプリで佐伯さんの予約を見ようとすると、受付を停止している表示になっていた。何が確認されたのかは、僕には分からない。ただ、僕の書いた文章で次の人が安心することは、もうない。その時は、そう思っていた。
お客様の声
それから二週間ほどして、集合ポストの下に、薄い広告が落ちていた。家事代行の案内だった。大きな写真は、佐伯さんの笑顔だった。アプリとは違う予約先が載っていたが、道具の袋も、作業着の襟の形も、僕の玄関で見たままだった。
広告の真ん中に、「お客様の声」とあった。浴室と台所がきれいになりました。安心して一人でお願いできました。三十二歳、男性。その最後の一文は、僕が玄関で書いたものだった。年齢は、予約した時のプロフィールに入れていた。名前が伏せてあることに、何の安心もなかった。
管理人へ広告を見せると、配布に協力したものではないと言って、残りを片づけてくれた。僕はその紙を持ち帰った。破いてしまいたかったが、捨てられなかった。自分の言葉ではないと言いたいのに、僕が書いたことだけは、本当だったからだ。
夕方、同じ階の人とエレベーターで会った。広告を見たらしく、あの掃除の人を頼んだことがありますか、と聞かれた。僕は、きれいにはなります、と言いかけて、やめた。二時間の掃除より、その後の四十分を、先に話した。
今でも、評価の高い店を見れば、安心する。それが全部うそだと思っているわけじゃない。ただ、あの一文を見るたび、考えてしまう。誰かが安心した証拠に見える文章は、誰かが、早く一人になりたくて書いた文章かもしれない。星五つをつけたら、帰ります。僕はその声を、まだ覚えている。