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ORIGINAL HUMAN HORROR

助けてくれた人が、犯人を決めた。

思い出した顔は、私が見た顔ではなかった。

助けてくれた人が、犯人を決めた。の表紙

雨の階段で転倒した私を救ってくれた男性は、何度も話を聞いてくれた。彼の説明を繰り返すうち、知らなかった犯人の顔が、自分の記憶として浮かぶようになる。感謝と同意を切り離すまでを描く人間の怖い話。

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朗読:VOICEVOX:冥鳴ひまり / 約12分

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動画公開:10/19 18:00(日本時間)

転倒事故、けが、心理的な圧力と誤った疑いを扱います。暴力や傷の直接描写はありません。

全文を読む(結末を含みます)

雨の階段

助けてくれた人の言葉を疑うのは、恩知らずなことだと思っていた。今でも、あの人が救急車を呼んでくれたことには感謝している。雨の中で私の傘を拾い、肩に上着を掛けてくれた。その手が温かかったことも、覚えている。

私は駅裏の階段で転んだ。段数の少ない、店の入口へ続く階段だった。金曜日の午後七時前。雨が降っていて、片手には買い物の袋を持っていた。次に覚えているのは、冷たい地面と、ひどく近くで聞こえる自分の息だった。

背中を強く引かれたような気がした。それが転ぶ前だったのか、倒れた時だったのかは分からない。膝が痛くて、しばらく立てなかった。人に押されたの、と尋ねられても、私は、分からない、としか答えられなかった。

助けてくれたのは、近くの会社に勤める町田さんという人だった。「何も覚えてなくて当然ですよ」。私より十歳ほど上に見えるその人は、ずっと落ち着いた声で話した。病院へ連絡してほしい家族の番号も、私の携帯で探してくれた。

幸い、けがは打撲と擦り傷で済んだ。その日のうちに帰宅できたが、一人の部屋に戻るのが怖くて、友人の真帆に来てもらった。町田さんへお礼の連絡をすると、「無事でよかった。あの男のことは、落ち着いてからで大丈夫」と返ってきた。

あの男。私はその言葉を、何度か読み返した。階段に他の人がいたことは、覚えていなかった。でも町田さんは私より周囲を見ていたのだろう。自分が見ていないことを見てくれた人がいる。それは、その夜の私を、とても安心させた。

お礼の席

翌週、私はお礼の菓子を渡すため、町田さんと昼間の喫茶店で会った。彼は、そんなことはしなくていいと笑った。それから、けがの状態や、夜眠れているかを丁寧に聞いた。急がせずに話を聞く人だった。

私は家族にも、仕事先にも、大したことはなかったと話していた。心配をかけたくなかったからだ。町田さんの前でだけは、帰り道が怖いと言えた。その安心が、後から彼の言葉を疑う時、何度も私の手を止めることになった。

「黒い服の男がいたんです」。町田さんは、階段の辺りから一人の男が離れていくのを見た、と話した。雨なのに傘を差さず、急いでいた。私が倒れたのを見て逃げたのだろう、と。そうなのかもしれない、と私は答えた。

町田さんは、記憶が薄れる前に書いておくといい、と勧めた。私も、後から聞かれた時に困らないよう、携帯にメモを作った。場所、時刻、雨、買い物袋、背中の感触。そこまでは自分で覚えていることだった。

彼は画面を覗き、黒い上着の男も書いておきましょう、と言った。私は「町田さんが見た男」と入力した。町田さんは頷き、「たぶん、フードも付いてました」と続けた。その下に、フード、とだけ足した。

その日から、町田さんは時々、連絡をくれるようになった。「何か思い出しましたか」。私は特にないと答えた。すると、無理に忘れようとしなくていい、怖かったことを小さくしなくていい、と返ってきた。

私は、押されたとは言っていない。それでも、怖かったことを否定されないのは、ありがたかった。自分の不注意だと思おうとしていたのは、自分を責める方が楽だからかもしれない。そんなふうに考えるようになった。

写真の丸印

二度目に会った時、町田さんは階段の写真を持ってきた。昼間に撮ったものだった。「ここにいたんですよね」。私は三段目を指した。たぶん、と付け加えたのに、彼は写真へ小さな丸を書いた。私の位置、という意味の丸だった。

男の位置にも丸が付いた。私の斜め後ろだった。私は、町田さんがそこを見たのかと思った。後になって分かったが、それは、私が背中を引かれたと話したことから、彼が置いた位置だった。

写真の隅に、私が立っていた時には見えなかった看板が写っていた。何度も見ているうち、雨の夜にもそれを見たような気がしてきた。昼の写真から持ってきた景色と、夜にいた場所を、私は区別せずに思い浮かべていた。

町田さんは、男が逃げた方向を線で結んだ。「この角で、こっちを見たんです」。顔を覚えているのか尋ねると、横顔だけ、と答えた。私の頭の中にも、黒い服の男が振り返る場面が浮かんだ。実際には、私は倒れた地面しか見ていなかった。

写真を眺めながら話すうちに、私は、左の肩が引かれたような気がする、と言った。町田さんは大きく頷いた。「そうです。右じゃなくて、左でしょう」。なぜ彼に分かるのか、その時は疑問に思わなかった。

相談を受けた警察の人からは、覚えていることと、人から聞いたことを分けて話すよう言われていた。最初は分けられた。けれど何度も同じ写真を見ていると、黒い上着の背中は、雨や地面の冷たさと同じくらい、はっきりしてきた。

町田さんは、あの日近くにいたらしい人の名前を挙げるようになった。角の店で働く若い男性だという。「服装も体つきも、似てるんです」。私はその店を利用したことがあった。入口に立つその人の顔が、浮かんでしまった。

町田さんは、勝手に決めつけてはいけない、と必ず言った。その後で、でも心当たりがあるなら黙っている方がよくない、と続けた。私はまだ何も思い出していないのに、思い出さないことで誰かを逃がしているような気持ちになった。

最初の二十秒

真帆にその話をすると、彼女は携帯を出した。転んだ夜、私が送った音声メッセージが残っていた。指が震えて長い文字を打てず、声で助けを求めたものだった。病院から帰る直前に録音した、二十秒ほどの音声だった。

「階段で転んだ。後ろに誰かいたかは分からない。たぶん大丈夫だけど、今日だけ来て」。自分の声だった。その時の私は、後ろに人がいたことも分からなかった。今の私は、男が振り返る顔まで思い浮かべることができる。

「その顔、自分で見たの?」。真帆は一度だけ聞いた。私はすぐに答えられなかった。町田さんの説明を聞いた時、写真を見た時、店の男性を思い出した時。それらの場面は覚えている。転ぶ前に男の顔を見た場面だけが、どこにもなかった。

私は携帯のメモを最初から読み直した。「町田さんが見た男」の下には、フード、左肩、振り返った顔、と並んでいた。途中から、誰が見たことなのかを書かなくなっていた。文字の順番は残っているのに、思い出の出所が混ざっていた。

真帆は、ただの事故に決まっているとも、町田さんが怪しいとも言わなかった。そこはまだ分からないね、と言った。私の答えが曖昧なままで会話が終わったことに、驚いた。いつの間にか私は、話すたびに何かを思い出さなければと思っていた。

町田さんに、階段のどこから見ていたのか尋ねた。彼は、角を曲がった所だと答えた。転ぶところも見ていたのかと聞くと、少し間が空いた。「倒れた音がして、そっちを見たんです」。最初から言っていたでしょう、と付け加えた。

私はやり取りを遡った。彼は一度も、押される瞬間を見た、と明言していなかった。私の背中の感触と、彼が見た黒い服の人。その二つを繋いで、「押して逃げた男」という一人を、私たちで作っていた。

分からないまま

私は改めて、警察へ相談した。自分で覚えていることが分からなくなったと伝え、最初の音声メッセージと、町田さんとのやり取りを持っていった。分からない部分を空欄にして話すと、頼りない説明になった。でも、それが私に分かる範囲だった。

説明を準備した紙には、消し線が何本も残った。黒い服、左肩、振り返った顔。文字を消すことが、あの人へのお礼を取り消すように感じられた。私はそのたびに、救急車を呼んでもらったことは消していない、と自分へ言い聞かせた。

後日、店の入口を映した防犯映像について、説明を受けた。私のすぐ後ろに立つ人はいなかった。足を踏み外すところは見え、町田さんは私が倒れた後、角から現れていた。黒い服の人が、その前に通り過ぎていたことも確認されたという。

背中の感触が何だったのかは、私には説明できなかった。鞄がずれたのかもしれないし、転ぶ時に服が引かれたのかもしれない。今度は、そのどちらかを本当の記憶として埋めたくなかった。分からないままにしておいた。

名前を挙げられた男性を、私が見たと言うことはなかった。そこまで行く前に止まれた。店の前を通る時、私は別の道へ回りたくなった。怖いからではない。顔も確かめず、頭の中でその人を私の後ろに立たせてしまったことが、恥ずかしかった。

町田さんへ、分かったことを伝えた。彼はまず、映像は全部映っていたのか、と聞いた。音はなかったのか。見えない場所で先に何かされた可能性はないのか。私は、そういうことを思い出したわけではない、と答えた。

「でも、あの時はあんなに怖がってたじゃないですか」。町田さんは言った。私は、転んで痛くて、立てなかったから怖かったのだと思う、と答えた。彼は黙り、それから、私がそう思いたいなら、それでいいです、と言った。

私は、助けてもらったことは本当に感謝している、と伝えた。町田さんの顔が少し緩んだので、話が通じたと思った。けれど彼はこう続けた。「だったら、僕が何を見たかも、信じてくれていいんじゃないですか」。

受け取られなかった答え

その一言で、ようやく分かった。お礼を言うことと、相手の説明を本当だと言うことが、いつの間にか一組になっていた。上着を掛けてくれた手を覚えているなら、その人が置いた犯人の顔も、覚えていなければならなかった。

町田さんは嘘をついているつもりではなかったのかもしれない。倒れている私と、急いで離れる人を見て、理由を考えた。その説明を私が受け入れ、怖がり、感謝した。そのたびに、彼の中でも説明が確かなものになっていったのかもしれない。

ただ、確かでないと分かった後も、彼はそれを手放そうとしなかった。「もう一度、あの日のことを落ち着いて話しましょう」。私が断っても、そう連絡してきた。思い出すまで話す、と言われているようで、私は携帯を見るのが怖くなった。

私は、これ以上、二人で記憶を確かめることはしない、と返した。助けてもらったことへの感謝も、もう一度書いた。返事には「こんなことになるなら、関わらなければよかった」とあった。私はその文章を消さず、真帆に見せた。

しばらくして、やはり一度だけ会って謝ろうかと思った。疑ったことではなく、嫌な気分にさせたことだけ謝れば、元の親切な人に戻るのではないか。そう考えている自分に気づき、私は書きかけの返事を閉じた。

今は、町田さんと連絡を取っていない。階段の前も通れるようになった。けれど黒い服を着た人が不意に振り返ると、まだ一瞬、胸が苦しくなる。自分では見ていないと分かった場面が、頭の中からきれいに消えるわけではなかった。

助けてもらったことは本当だ。犯人を見た記憶は、私のものではなかった。その二つを、私は時々、声に出して確かめる。どちらかを嘘にしないともう片方を信じられないような気がしてしまう時が、まだあるからだ。

最初の音声メッセージも、残してある。そこにいる私は震えていて、うまく話せず、何が起きたのかも分からない。その声を聞くたびに思う。あの時の、分かりません、という答えを、誰か一人でも、そのまま受け取ってくれればよかった。