ORIGINAL HUMAN HORROR
その動画、私だけが消していない。
事故の後より、事故の前が怖かった。

旅行中にけがをした友人のため、皆が動画を消した。ひとりだけ残していた私は、事故の音よりも、その前の会話に聞き覚えがあることに気づく。人を心配する言葉が、断る権利を奪っていく人間の怖い話。
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朗読:VOICEVOX:冥鳴ひまり / 約12分
YouTubeで見る動画公開:10/15 18:00(日本時間)
友人間の心理的圧力、転倒事故と骨折への言及があります。事故や傷の直接描写はありません。
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消しておこう
旅行から帰った次の日、六人のグループに、美咲から連絡が来た。「春香のために、昨日の動画は消そう」。事故の写真を残したくない。それは当然の気遣いに思えた。私は、了解、とだけ返した。実際には、まだ一本も消していなかった。
年に一度、大学時代の友人と出かける。もう九年続いている習慣だった。今年は山の貸別荘を二泊三日で借りた。春香は初日の夕食を作り、二日目の店を予約し、最後の夜に、階段から落ちて右手首を折った。
私が撮っていた動画にも、途中で大きな音が入っている。画面は窓の外を向いたままで、誰の姿も見えない。その後、私たちが廊下へ走っていく足音がする。八分と少しの、ほとんど真っ暗な動画だった。
春香は病院から帰ってきた時、自分の足元が見えていなかった、と言った。皆が疲れていたし、貸別荘の階段にも慣れていなかった。誰かを責める出来事ではない。帰りの車の中で、私たちは何度もそう話した。
その車に、春香は乗っていなかった。迎えに来た妹さんと、一足先に帰ったのだ。私はその時には、そのことを気にも留めなかった。美咲の連絡に続いて、画面には「消したよ」という返事が三つ並んだ。その上に、私の「了解」があった。
最後に、春香が「写真は残してくれていいよ」と送ってきた。美咲はすぐに「無理しなくていいからね」と返した。私はあの動画を再生しようとして、やめた。人がけがをする音を、わざわざ聞きたくなかった。
帰り際、美咲は春香に、次は近場でゆっくりしようね、と言っていた。春香は答えず、妹さんが小さく頭を下げた。次の旅行を約束して励ます。私には、その時の美咲が、一番友達を大事にしている人に見えていた。
八分の暗い動画
三日後、別の友人の圭介から、個別に電話があった。春香の様子を尋ねる電話かと思ったが、違った。「動画、端末だけじゃなくて、自動保存の方も消した?」。彼は、最近それで困る人が多いから、と説明した。
私はパソコンにも旅行のデータを移していた。それを伝えると、圭介は少し黙った。「ああ、そこも頼む」。気遣いにしては、保存場所を細かく気にする。私は消す前に、内容を一度だけ確かめることにした。
音が鳴るのは、六分四十二秒だった。その後の足音、誰かが春香の名前を呼ぶ声、救急車を呼ぶよう私が言う声。記憶と違うことはない。少し安心して、再生位置を最初に戻した。
最初の一分には、机に携帯を置く時の、指のこすれる音が入っていた。星を撮ろうとして、動画にしたまま窓枠へ立てかけたのを思い出した。美咲が、これなら皆も写るね、と言い、私は、外しか写らないよ、と返していた。
二分を過ぎたところで、春香の声がした。「だから、次からは私は抜けるって言ってるだけ」。その言い方に、私は驚いた。あの夜、そんなにはっきり言っていただろうか。困ったように笑っていた顔だけが、記憶にあった。
春香は、この秋に転職して、週末も仕事になると話していた。毎年の日程調整は難しいだろう。誰も反対していない。そう思っていた。けれど動画の中で、美咲は言った。「仕事を理由にしなくても、正直に言ってよ」。
音量を上げると、冷蔵庫の低い音や、氷の触れ合う音まで聞こえた。あの場に戻ったような気がしたのに、会話だけが知らないものだった。私はイヤホンを片方外した。自分の部屋が静かなことを、一度確かめたかった。
読まなかった文章
春香は、幹事を代わってほしいとも言っていた。日程を聞き、空いている宿を探し、全員の食事の希望をまとめる。私たちは春香がそういうことを好きなのだと思っていた。得意だね、と褒めるたび、彼女は笑っていた。
今年の旅行の前にも、長いメッセージが届いていた。私は通知の最初の二行を見て、後で返そうと思った。次にグループを開くと、美咲が「春香には無理させない方向で」とまとめていた。それで話は済んだと思っていた。
動画の中で、圭介が言う。「抜けるって言葉は大げさじゃない? ただ来られない年があるってことで」。もう一人が、縁を切られるみたいで傷つく、と続ける。春香は、そういう話ではない、と答えた。
私は夕食の時のことを思い出した。鍋が空になり、春香だけが流しに立っていた。美咲が、片付けは後でいいから戻ってきて、と呼んだ。私たちは、彼女が座るまで、隣に空けた椅子を見ていた。
私は再生を止めて、以前の長いメッセージを探した。「お金の立て替えも、買い出しも、宿への連絡も、来年からはできません」。その下に「旅行自体を、しばらく休みたいです」。私が読まなかった部分に、全部書いてあった。
さらに下には私の返事があった。「そんなに気負わなくていいよ。いつも通りで大丈夫」。励ましたつもりだったことは覚えている。その言葉を読んだ春香が、いつも通りの何をやめられるのか、私は考えたことがなかった。
春香が食事を予約しなかった年、一度だけ皆で現地を歩き回ったことがある。ようやく入れた店で、圭介が、やっぱり春香がいないと駄目だな、と笑った。私も頷いた。自分たちで調べなかったことは、誰の失敗にもならなかった。
五分だけ
動画を進めると、誰かが春香の前に飲み物を置いた。「まあ、落ち着いて」。春香は、落ち着いている、と答えた。それなのに別の誰かが、今は疲れているだけだよ、と言った。声の調子は、どれもひどく優しかった。
四分二十秒。春香が、今日はもう寝る、と言った。椅子を引く音がした。すぐに美咲が「この空気のまま解散するのは、私は嫌だな」と言った。圭介が笑った。「そうそう。明日の朝、気まずいじゃん」。
そこで私の声がした。「五分だけ座ろうよ。春香がどうしたいか、ちゃんと聞きたいから」。画面の中は、黒い窓と、小さく映り込んだ室内の明かりだけだった。姿がないせいか、自分の声が、知らない人のように聞こえた。
春香は「もう言ったよ」と答えた。私はこの返事を覚えていなかった。「そういう意味じゃなくてさ」と、動画の中の私が言った。何がそういう意味ではなかったのだろう。私は、続きを聞くのが急に怖くなった。
誰かが、せっかくだから記念写真を撮ろう、と言った。揉めたままではないと分かる写真が欲しい、と美咲が付け加えた。春香は断った。大丈夫な顔なんてできない、と言った。それでも皆は、そんな深く考えなくていい、と笑った。
五分四十八秒で、春香は部屋を出た。少し間があって、私の声がする。「追いかけた方がいい?」。美咲は「今行ったら、また私たちが悪いみたいになる」と答えた。圭介が、朝には普通に戻るよ、と言った。
それから、あの大きな音がした。事故の前に何があったのか、私はずっと知っていた。ただ、春香が気分を悪くして席を外した、という短い説明に置き換えていた。その方が、旅行の思い出を残しやすかったからだ。
再生を止めても、私の声が頭に残った。怒鳴っていない。脅してもいない。ただ、もう伝えたと言う相手に、伝わっていないことにして話し直させている。五人が揃って、それを何度も繰り返す部屋だった。
残してほしいところ
翌日、春香に会いに行った。けがの見舞いを理由にしたくなくて、先に、動画のことを話したい、と連絡した。彼女は駅前の喫茶店を指定した。手首の固定具を見て私は謝りかけ、何について謝るのかを考えてから、口を開いた。
「あの時、座ってって言ってごめん。帰りたかったんだよね」。春香は私の顔を見た。「寝たかったんだよ」。その短い訂正で、私はまた自分に都合のいい物語を作りかけていたと分かった。帰るほどの喧嘩でなくても、席を立ってよかったのだ。
階段を踏み外したのは、本当に不注意だったと春香は言った。泣いていたせいかもしれないが、そこは分からない、とも。誰かに押されたのでも、追われたのでもなかった。「だから、けがの責任を取ってほしいわけじゃないよ」。
美咲たちからは、事故の音が残った動画を消した、と連絡が来ていた。春香が頼んだことではなかった。「私、皆にひどい言い方したのかなと思ってた」。美咲は、春香が突然怒り出した、と電話で話していたそうだ。
圭介も、皆が心配していたのに逃げてしまった、と言ったらしい。「誰も責めてないよって、何度も言われた。責められることをしたのは私なんだな、って」。春香は砂糖の袋を、開けずに指で平らにしていた。
私は動画を渡していいか尋ねた。春香は少し考えて、「私が、もう嫌だって言ってるところも入ってる?」と聞いた。入っている、と答えると、「そこをください。けがした後は、なくてもいい」と言った。
八分のうち、私が残したくなかったのは最後の一分だった。春香が必要としていたのは、その前の六分だった。私はその場で元の動画を渡した。切り抜きも、字幕も、私の説明も付けなかった。
ファイルの送信が終わるまで、私たちは黙っていた。私は、また会おうとも、これからは何でも言ってとも言わなかった。春香はちゃんと言っていたのだ。聞かなかった側が、言いやすくしてあげるような顔をするのは、もう嫌だった。
写真に嘘はない
その夜、美咲からまた電話があった。私が春香と会ったことを知っていた。「今はそっとしておいた方がいいよ。何度も思い出させるの、かわいそうだから」。私は、動画は本人に渡した、と伝えた。電話の向こうで、食器を置く音がした。
「ああいうの、前後が分からないと、誤解されるじゃん」。美咲が言った。前後も入っている、と答えた。「そういう意味じゃなくて」。動画で自分も使っていた言葉だった。私はその先を、最後まで聞いていた。
私だってあの場にいた、と美咲は言った。自分だけ悪くなかったことにするのは違う、と。そこには頷いた。私の声も、同じファイルに残っている。だから消せないと言うと、彼女は、そんなことを言っているんじゃない、と答えた。
美咲は、私たちも傷ついている、と言った。九年間ずっと一緒だったのに、急にやめたいなんて。春香が抜けたら、もう前みたいには集まれない。寂しいことと、相手を帰さないことを、彼女は同じ話として続けた。
数日後、旅行の共有アルバムが更新された。最後の写真は、病院へ行く前、玄関で春香の靴を揃える私だった。添えられた文章には「大変なこともあったけど、皆で支え合えてよかった」とあった。写真に嘘はなかった。
私は自分の分の写真を保存し、グループを抜けた。春香とは、その後一度だけ短いやり取りをした。動画を見終えたという連絡と、「消さないでいてくれてありがとう」という言葉だった。私は、それに、どういたしましてとは返せなかった。
今も動画は残してある。春香のためだけではない。私は放っておけば、最後の一分だけを覚えている人間なのだ。誰より早く救急車を呼ぼうとした自分と、誰より穏やかな声で、もう五分座れと言った自分を、別の人にしてしまう。
一度だけ、再生時間を勘違いして、事故の少し前から流してしまった。暗い画面の中で、私が笑っていた。春香は何も言わなかった。私は以前なら、皆で笑った場面だと思っただろう。もう、そう聞くことはできなかった。