私の部屋は、三階です。窓の外に、女が立てる場所はありません。ベランダも、隣の建物も、ありません。
それでも、あの晩、女はそこにいました。窓枠に指を掛けて、びしょ濡れの顔を、こちらへ向けていました。
そのアパートへ越して、二か月ほどたったころのことです。仕事から帰ったのは、夜の十一時を過ぎていました。雨が強く、靴の中まで濡れていました。
私は風呂を済ませ、布団の脇に座りました。窓には薄いカーテンを一枚だけ掛けていました。道路からは見上げても部屋の中まで見えず、気にしたことがなかったのです。
最初は、洗濯物だと思いました。カーテンの向こうに、白いものが揺れていたからです。隣の部屋から飛んできて、窓の金具に引っ掛かったのだろう、と。
立ち上がって、カーテンを引きました。女の顔がありました。鼻先が、ガラスに触れるほど近くに。私は声も出せず、手を止めました。
長い髪が、頬に張りついていました。白いブラウスは水を含んで、肩へ重くまとわりついていました。髪の隙間から、目が二つ、こちらを見ていました。
下を見ました。窓のすぐ外には、何もありません。その先は、雨に濡れた駐車場です。街灯に照らされた地面が、ずいぶん下に見えました。
女は窓枠に両手を添えていました。しがみついている様子はありません。肩にも腕にも力が入っていない。そのまま、空中に、立っていました。
目が合った途端、女の唇が動きました。雨の音で聞こえないはずなのに、その声だけは、耳のすぐ近くで聞こえました。
開けて。
私はカーテンを閉めました。窓の鍵は、閉まっています。さっき風呂へ入る前にも、確かめました。取っ手に触れることさえできず、後ろへ下がりました。
かり、かり。ガラスを、爪で引く音がしました。窓の右端から、左端まで。引っかかるところを探すように、ゆっくり、往復していました。
電話をつかんで、管理人さんの番号を押しました。呼び出し音の間も、爪の音が続いていました。手が震えて、電話の角が歯に当たりました。
出た管理人さんに、窓の外に人がいると伝えました。三階の、駐車場に面した窓です、と言うと、向こうで小さく息を吸う音がしました。
今、下から見ます。窓には近づかず、玄関の鍵を開けておいてください。すぐ、そちらへ行きます。
私は玄関へ走りました。チェーンを外し、鍵を回しました。靴を履こうとして、片足を持ち上げたときです。窓を引っかく音が、ぴたりと止まりました。
静かになった部屋で、水の落ちる音がしました。ぽた。ぽた。雨音とは、はっきり違いました。私と窓の間、床板の上から聞こえたのです。
振り返ると、カーテンの裾が濡れていました。窓の下に、黒い水たまりが広がっていました。そこから、裸足の跡が一つ、部屋の中へ向いていました。
二つ目の足跡が、できました。床板の上に、濡れた指の形が、じわりと広がるところを見ました。足は見えません。ただ、誰かが、そこで歩いていました。
逃げようと、玄関へ向き直りました。女がいました。私とドアの間に、さっき窓の外にいた女が、立っていました。
肩が斜めに下がっていました。首を傾けたまま、こちらを見ています。髪から落ちた水が、私の脱ぎ散らかした靴へ、たまっていました。
私は部屋の奥へ戻りました。窓へ近づくしかありませんでした。背中にカーテンが触れて、冷たい水が、服へ染みてきました。女は、玄関をふさいだままでした。
開けて。
口が動くのを、今度は見ました。唇の間から、水がこぼれました。私が息を吸うと、女も胸を膨らませました。私が止めると、女の肩も止まりました。
まだ電話を握っていました。管理人さんの声が、遠くから聞こえました。私は返事をしようとしましたが、喉から、細い音しか出ませんでした。
女の足が、一歩、動きました。膝を曲げずに、床の上を滑りました。水が、靴から廊下へ、細い線になって伸びました。
ドアの外から、私を呼ぶ声がしました。管理人さんでした。玄関の取っ手が動きましたが、ドアは、ほんの少し開いただけで止まりました。
中に、いらっしゃいますか。ドアの前のものを、どけられますか。
女の背中が、ドアに挟まっていました。薄く開いた隙間から、廊下の明かりが入っていました。けれど、その明かりを受けても、女の影は、床にありませんでした。
私は、入らないでください、と叫びました。管理人さんが外から押すたび、女の体が、少しずつ、こちらへ傾いてきたからです。両腕は、脇へ垂れたままでした。
ドアが閉じました。外で管理人さんが、誰かに電話をする声がしました。私は壁へ背中をつけました。窓はすぐ右にありました。雨粒が、ガラスを流れていました。
女が、顔を上げました。髪が左右へ分かれて、口元が見えました。口は、開いたままでした。暗い穴の奥から、水のこぼれる音が、絶えず聞こえていました。
目を閉じました。すぐに、床板がきしみました。目を開けると、女は部屋の真ん中まで来ていました。私は自分の膝を抱え、声を出さないよう、唇を噛みました。
そのまま、どれだけたったのか分かりません。電話の画面が消えました。冷蔵庫が止まりました。外の雨も、いつの間にか弱くなっていました。
女の髪が、私の足に触れました。顔が、すぐ前にありました。しゃがんだ私に目を合わせるために、女は腰から体を折り曲げていました。
開けて。
私は首を横へ振りました。女の目の中には、私の姿が映っていませんでした。髪の先から落ちた水が、膝を伝いました。窓に当たっていた雨の音が、やみました。
遠くで、ごみ収集車の音がしました。カーテンの向こうが、青く明るくなっていました。女の肩越しに、玄関の木目が透けて見えました。
女はまだ、口を動かしていました。声は聞こえませんでした。最後に、濡れた髪だけが、床板の上へ落ちるように消えました。水たまりと、私の服の冷たさが残りました。
管理人さんが、外からドアを開けました。私は裸足のまま廊下へ出ました。つないでいた電話は、とっくに切れていました。管理人さんは、明け方まで、ドアの前にいてくれたそうです。
落ち着いてから、以前この部屋に住んでいた女性の話を聞きました。雨の夜、窓の外で亡くなった人がいたそうです。そのころは、窓の下に、細い非常用の足場があったといいます。
事故のあと、足場は撤去されました。それでも雨の日には、窓を叩く音がすると、前の住人が訴えていたそうです。姿を見たと話したのは、私が初めてでした。
部屋には戻りませんでした。引っ越しの荷物は、人に頼んで運び出してもらいました。窓を開けた覚えはありません。鍵も壊れていませんでした。どうやって入ったのかは、今も分かりません。
新しい部屋は、四階にしました。厚いカーテンも買いました。雨が降る夜には、窓を見ず、廊下側の壁に向かって眠るようになりました。
ひと月ほど、何もありませんでした。けれど、昨夜、久しぶりに強い雨が降りました。布団に入ると、あの音がしました。かり、かり。爪で、ガラスを引く音です。
私は振り返れませんでした。音は、すぐに止まりました。続いて、水の落ちる音がしました。今度は、窓の下ではありませんでした。私の枕の、すぐ横でした。
開けて。
目を閉じたまま、布団をかぶりました。布団の端を、冷たい指がつかみました。引っ張られて、顔にかかっていた布が、少しずつ下がっていきました。
窓は、まだ閉まっています。女は、部屋の側にいます。今、その濡れた髪が、私の頬に触れています。
(了)
