終電の窓を、外から叩く音がした。私は顔を上げた。窓の向こうには、暗い山が流れていた。電車は、止まっていなかった。
その晩、私は仕事が長引き、いつもより二本遅い電車に乗った。乗り換え駅の売店は閉まり、ホームには、私のほかに誰もいなかった。
最後尾の車両だった。緑の長い座席に腰を下ろし、鞄を膝に載せた。窓には、疲れた自分の顔と、向かいの空いた座席が映っていた。
町の明かりが途切れると、車輪の音がよく聞こえた。線路の継ぎ目を越すたび、吊り革が小さく揺れた。私は目を閉じかけていた。
こん、こん、こん。耳のすぐ横で、三回。レールの音とは違った。誰かが、指の関節で、ガラスを軽く叩いた音だった。
窓を見ても、何もいなかった。黒いガラスに、自分の顔が映っているだけだった。枝が当たったのだと思い、私はまた目を伏せた。
同じ音がした。今度は、さっきより少し強く。私は顔を寄せず、目だけを窓へ向けた。自分の肩の隣に、白い指が見えた。
踏切の明かりが、一瞬、車内を照らした。そのとき、女の顔が見えた。長い黒髪の間から、白い額と、開いたままの目が、こちらを向いていた。
反射だと思って、向かいの席を見た。誰もいない。後ろも、空席だった。窓へ目を戻すと、女はまだそこにいた。指先が、外側のガラスを叩いた。
口元だけが、かすかに動いていた。何かを言っているようだったが、走行音で聞こえなかった。顔は窓に近いまま、少しも上下に揺れなかった。
電車が短い鉄橋へ入った。窓の下には、街灯を映した川が見えた。女が立てる足場など、どこにもなかった。
灰色のコートが、窓の外を流れた。裾の下に、裸足の足が二つあった。地面を蹴っていない。足をそろえたまま、女は電車についてきていた。
私は、座席から立ち上がった。女の顔も、ゆっくり上がった。窓の端へ逃げても、首を傾け、ガラスの向こうから、目を合わせてきた。
白い手が開いた。掌がガラスへ押しつけられ、指が一本ずつ、こちらへ曲がった。私は鞄を抱え、隣の車両へ走った。
重い貫通扉を引いて、通り抜けた。扉が閉まる音に驚いて、振り返った。窓から離れた車両の真ん中で、私はようやく息を吐いた。
ここにも、乗客はいなかった。天井の灯りが、座席の端まで白く照らしている。さっきの窓は、もう見えない。運転席の方へ行こうと思った。
一歩踏み出したところで、横から音がした。こん、こん、こん。すぐ横の窓に、女の顔があった。前よりも口を大きく開けて、こちらを見ていた。
私は、窓のない連結部分まで後ずさった。携帯を取り出したが、画面は圏外だった。非常用の通話器へ呼びかけても、走行音にまぎれた雑音しか返ってこなかった。
窓を叩く音が、一つ、前へ進んだ。次の窓。その次の窓。私が運転席の方を見るたび、女はそちらへ回り込んでくるようだった。
窓の外に、トンネルの壁が迫った。車輪の音が急に大きくなり、車内の灯りがガラスへ強く映った。外側は、何も見えなくなった。
見えなくなっても、音は続いた。叩く音ではなかった。指先をガラスへ押しつけたまま、ゆっくり、引いている。私のいる場所へ、近づいていた。
窓の黒い部分に、二つの掌が浮いた。女の顔が、その間にあった。灯りを背にした私の顔より、ずっと、はっきり見えていた。
車内灯が、ふっと消えた。私は鞄を抱いたまま、身を縮めた。ガラスを擦る音だけが、すぐそばで止まった。
灯りが戻った。窓にあった顔が、消えていた。掌もない。私は窓から目を離せず、しばらく、その黒い面を見つめていた。
背もたれのすぐ後ろで、何かが擦れた。長い髪を、布張りの座席へ引きずっているような音だった。私は、その音を、さっきから知っている気がした。
向かいの窓を見た。ガラスに、車内が映っていた。私が立つ連結扉。その後ろの通路。そこに、灰色のコートを着た女が立っていた。
私は、振り向いた。女は、車内にいた。両腕を下ろし、首だけを少し傾けていた。髪の先が、座席の上を滑っていた。
裸足が、床に触れていた。片足を持ち上げ、ゆっくり下ろす。ぺたり。その音を聞いて、私は初めて、女が自分で歩いていることを知った。
顔は、窓の外にあったときと同じだった。まぶたが動かない。私が後ずさると、女は一歩、足を出した。私が止まると、そちらも止まった。
次で、降りるんでしょう。
声が、車輪の音の中から聞こえた。私は返事をしなかった。行き先を言った覚えはない。次の駅は、私が降りる駅だった。
トンネルを抜けた。窓の外に、家の明かりが見えた。女はそちらを見ない。ただ私の顔を見ながら、もう一歩、通路を進んだ。
私は出口の扉まで下がった。背中がガラスに当たった。電車が減速している。ホームの灯りが、窓を一つずつ通り過ぎた。
ブレーキの音の下で、裸足が鳴った。さっきより近い。コートの袖から出た白い手が、ゆっくり、私の肩の高さまで上がった。
扉が開いた。私はホームへ飛び出した。足がもつれ、膝をつきそうになった。そのまま走って、電車から、できるだけ離れた。
振り返ると、扉はもう閉まりかけていた。女が、その向こうに立っていた。ガラス越しに、口の端が、ゆっくり上がった。
電車が動き出した。女の顔が、私の前を通り過ぎた。窓から窓へ、同じ顔が続いたように見えた。最後尾の赤い灯りが、闇へ消えた。
私は、しばらく動けなかった。ホームには、誰もいない。遠くで、電車の走る音が小さくなった。冷たい風が、首の後ろを通った。
改札へ歩き出した。靴が床を打つ音に、もう一つ、別の音が混じった。ぺたり。私は足を止めた。そちらも、止まった。
足元を見た。私の靴のすぐ後ろに、濡れた裸足の跡があった。見ている間に、その隣が、ゆっくり濡れた。まだ、足は見えなかった。
私は振り返らず、改札まで歩いた。靴音のあとに、一つずつ、裸足の音がついてきた。右肩へ、長い髪が触れた。
あれから、終電には乗っていない。それでも、夜、一人で歩くと、靴音のあとに、もう一つ続くことがある。私が止まれば、そちらも止まる。振り向いたことは、ない。
(了)
